コミュニティ放送局・FM765 秋田コミ...

近世



1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍を破った徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、幕府を江戸に開いて天下の実権を握った。秋田県 マンションリフォーム・住宅リフォームのeリフォーム.com下の諸大名は西軍についた小野寺氏以外は所領安堵されたが、慶長7・8年にほとんどが常陸に移らされて、多くの地域は鎌倉以来となる長年の領主と住民のつながりは切れた。幕府の武家諸法度、参勤交代制度、各大名の労力奉仕などのため、大名の財政は次第に困窮し、反対に幕府の支配力は強化されていった。

1602年(慶長7年)、秋田郡を領有していた秋田実季(安東氏から改姓)と入れ替わりで、関ヶ原の戦いで西軍に内通していた佐竹氏が常陸国から転封される。初代藩主は佐竹義宣。義宣ははじめ秋田氏の居城であった湊城(現在の秋田市土崎港)に本拠を置いたが、まもなく神明山(秋田市千秋公園)に久保田城を築いて居を移し、藩内を治めることとなる。その組織としては、領内統治を担当する家老の下に財政担当の勘定奉行、城下支配の久保田奉行、そのほか能代奉行、各郡の郡奉行、鉱山支配の銅方奉行、山林支配の木山奉行などを配した。このような藩の組織機構の下、直接生産を営む農民と、その中間の商人・職人が位置づけられ、新たな時代の生活が始まった。

佐竹氏は54万石の常陸から、明治まで表高20万石の秋田藩を治めることになったが、実際の内高は開墾などで田地が増し、40万石ぐらいであったとされる。しかし、領内に存在した院内鉱山や阿仁銅山諸鉱山及び全国に著名な秋田杉らによって久保田藩財政は潤っていたと言われている。

近世の秋田地方からは思想家の佐藤信淵・平田篤胤や秋田蘭画を切り開いた佐竹義敦・小田野直武らが出ている。また、本荘藩領にあった象潟は全国的に著名な景勝地であったため、松尾芭蕉らもこの地を訪れている。



 ・初代 義宣 (よしのぶ)(1602-1633)
 ・二代 義隆 (よしたか)(1633-1671)
 ・三代 義処 (よしずみ)(1671-1703)
 ・四代 義格 (よしただ)(1703-1715)

 ・五代 義峯 (よしみね)(1715-1749)
 ・六代 義真 (よしまさ)(1749-1753)
 ・七代 義明 (よしはる)(1753-1758)
 ・八代 義敦 (よしあつ)(1758-1785)

 ・九代 義和 (よしまさ)(1785-1815)
 ・十代 義厚 (よしひろ)(1815-1846)
 ・十一代 義睦 (よしちか)(1846-1857)
 ・十二代 義堯 (よしたか)(1857-1869)


幕末に久保田藩以外に秋田県 マンションリフォーム・住宅リフォームのeリフォーム.com下に存在していた藩として、岩崎藩、交代寄合旗本の仁賀保氏の仁賀保陣屋、盛岡藩領鹿角郡がある。横手・大館共に久保田藩城代が置かれた。

1868年に始まった戊辰戦争で、久保田藩ら出羽諸藩は奥羽越列藩同盟に加わる。しかし、久保田藩内の勤皇派がクーデターを起こして久保田藩は一転新政府側となったため(前後して岩崎藩・本荘藩・矢島藩も転向、亀田藩は転向後同盟軍に再加入)、他の奥州諸侯の標的となった。最終的に勝利したものの、久保田藩領の大半は荒廃したと言われる。

位置

 ・日本、東北地方の北西部に位置する
 ・隣接都道府県: 青森県 - 岩手県 - 山形県 - 宮城県

コミュニティ放送局

 ・FM765 秋田コミュニティ放送
 ・エフエム椿台
 ・エフエムゆ〜とぴあ